ブラジルの世界遺産 ①
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執筆者:田所 清克 氏(京都外国語大学名誉教授)
★★★この記事は執筆者の許可を得て伯学コラムに掲載させて頂きます。★★★
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ジルのユネスコの世界遺産 Patrimônios da humanidade do Brasil reconhecidos pelo UNESCO
はじめに
ブラジルの研究者でありながら、まことにお粗末というかお恥ずかしい次第であるが、正確にブラジルに存在する世界遺産を知らなかった。
1972年にユネスコ総会で採択された条約に基づく、人類の共通の普遍的な価値に思われる、文化遺産、自然遺産、複合遺産を言う。
植民地時代のブラジルには、ポルトガル人が首都としていたところ、あるいは占有拠点となったところ、はたまたイエズス会がインディオ保護に努めたところに、貴重な文化的残滓や歴史的建造物がみられる。
地域的多様性に富むお国柄だけに、遺産に登録すべき豊かな自然にあふれている。
であるから、そうしたブラジルの名所を、日本の観光客にもぜひ自分の目で見て頂きたい。
ともあれ、Manuel Martins氏が送ってくれた観光案内の新聞記事[Folha de S. Paulo紙と判明。5月13日付]を通してそれを知り得たのは、とても嬉しかった。
記事を見て意外に思ったのは、イグアスの滝や
パンタナルは自然遺産として登録されているのであるが、生物多様性を抱えるアマゾンが含まれていないとのことだ。何故なんだろう?
いずれにせよ、これ以降、登録された25に及ぶ遺産を順次、つまり時系列に沿って、新聞記事を参照しながら論じることしたい。
1.オウロ・プレトの歴史都市(cidade histórica de Ouro Preto)
Minas Gerais 州の都Belo Horizonteから100キロの距離にあるOuro Preto は、17世紀末期に創設された。18世紀に沿ってゴールドおよびダイヤモンドラッシュに湧き当時のVila Rica(豊かな町)は主たる中心地となって殷賑を極めた。今日、都市となったOuro Pretoは、荘厳な教会群と合わせて、チラデンテス広場、サン・フランシスコ・デ・アシス教会[不具の彫刻家Aleijadinhoの最高傑作]、インコンフィデンスィア美術館(Museu da Incon-fidência )の如き教会や歴史的建造物、さらにはDu Veloso、Chiko Reiといった旧鉱山までも観光資源しており、文化的ポテンシャルが高い。
ちなみに、オウロ・プレトの歴史都市は1980年9月5日にユネスコによって世界遺産に登録されている。

2 オリンダの歴史的中心地区(Centro Histórico de Olinda)
ペルナンブーコの州都であるレシーフェに隣接するオリンダ。ここはフレーヴォが生まれた地でもある。
Gilberto Freyre 研究、レシーフェ郊外のウジーナ[近代的砂糖工場=usina]見学の途上、幾度か訪ねているが、名に負う(linda)その街全体の美しさには、得も言えぬものがあり、圧倒されっぱなし。
有名なオリンダ巨大人形館(Casa dos Bonecos Gigantes de Olinda)以外に、カラフルな家並み、民芸品の工房、カルモ教会などの教会群、サン・フランシスコ修道院、セー大聖堂などが密集している。
石砂利の坂を登り降りすると、宗教美術館(Museu de Arte Sacra)なども一望できる。
さも博物館を観るような印象を抱かせるオリンダは、その文化的、歴史的、建造物の価値と豊かさから1968年には連邦政府によって文化財都市に指定され、1982年には世界遺産に登録されるに至っている。
それには、1930年代以降、「国家歴史および芸術遺産院」(Instituto do Pa- trimônio Histórico e Artí-
stico Nacional [Iphan])による地道な活動が奏功したことを忘れてはならない。
※オリンダについては、すでにFacebookにおいて、北東部を言及した際、フレーヴォ等を詳述している。

3. São Miguel das Missões
州都ポルト・アレグレからカラズイーニヨまで500キロ[国道386号線]、それから国道285号線で行くと、アメリカの植民地化の歴史上重要な、廃墟の残るMissões地方に達する。 そこには17および18世紀の間、ポルトガルとスペインの国王によって認められたイエズス会の神父たちが、グワラニ族のインディオをキリスト教徒に改宗するためにいた。 18世紀の中葉の布教村は絶頂で、数千のインディオと宣教師を抱えたと言われて
いる。 しかし、事態は一転する。つまり1768年、ポンバル侯(marquês de Pom-bal)によってブラジルから追放の憂き目に遭う。その結果、伝導所は衰退の一途を辿り始める。
ほぼ250年後、ブラジル国境付近には、7つの布教村のうち4つの廃墟、すなわちSão Nicolau, São Lourenço Mártir, São João Batista, São Miguel Arcanjo
が今も痕跡を留めている。 もっとも重要な廃墟は、最後のもので、SãoMiguel dos Missõesにある。州都から襾485キロの距離に位置し、1745年に建造された古い寺院の廃墟が存在することから、歴史的に価値あるものとして、1983年ユネスコの世界遺産に登録された次第。 この伝導所を訪ねる向きには、ブラジリアを設計したあの著名なLúcio Costaの手になる伝導所博物館(Museu das Missões)があるので、足を伸ばして頂きたい。そこには国内の布教関連の遺産も展示されている。

4. サルヴァドールの歴史中心地区(Centro histórico de Salvador)
つい先日、バイーアの文化圏と人間像についてFacebookに取り上げた。そして、研究の対象としてバイーア州、特にその州都サルヴァドールをしていた事由についても縷々述べた。 ところで、1535年にポルトガルは、マデイラ島とアソーレス諸島で成功を収めた同じ植民地化システムを導入することにした。
バイーア州の世襲制のカピタニア制度はFrancisco Pereira Coutinhoの指揮の下、サトウキビ栽培で当初は繁栄した。しかしながら、度重なるインディオおよびヨーロッパの列強の侵略、カピタニア制度の運営、管理のまずさなどから、凋落の兆しがみえた。
そこで、Dom João IIIは、新しい大地にTomé de Souzaを命じた。
かくして、外国の侵入から領土を護る目的で、新世界で最初のポルトガルの首都が1549年、サルヴァドールに置かれることとなった。
創建されたサルヴァドールは、海抜およそ65メートルの高台の地区と、港湾活動が集中する低地の地区という特色あるものになった。
サルヴァドールとその界隈はサトウキビやタバコの栽培地へと変貌し、港は17世紀から19世紀にかけて、ポルトガルへの商品の積み出し港として機能していた。
農村の大土地所有者もしくは農村貴族階級は、特に17世紀、農産物の輸出で儲けた金を豪邸の建設に当てた。 今日、その地域はサルヴァドールの歴史中心地区として保全されている。 約250万人の人口を擁するサルヴァドールの街のそこかしこに、歴史建造物のみならず、360日かけてやっと訪ねられるほどの無数のバロック教会、修道院が存在する。それら全てが、さながら博物館のような様相を呈していて、鑑賞に値する。アラビア語でサルヴァドールは“光り輝く”(esplendoroso)の意味であるそうだが、言い得て妙である。それほどこの都は、初期のこの国の歴史が深く刻まれた文化の宝庫である。
昔は、黒人奴隷に対する公に見せしめにした鞭打ちの場であったPerourinhoは、いわばサルヴァドールのシンボル的観光名所と言ってよいだろう。
社会人の方や学生さんを引率して、Jorge Amado館を背後に、絵になるこの広場で何度記念撮影したことか。 その一方、サルヴァドールには、観衆を魅了する土着的なカーニバルが見られる。それはリオのものともレシーフェのものとも違う、独特のものである。
そしてサルヴァドールは「黒いローマ」と呼ばれるほどに、アフロ系の人々が集住する都である。であるから、彼らの伝統や宗教が保持され、街全体にオロドゥン(olodum)の太鼓が響き渡っているかのような印象さえ覚える。
植民地建造物としてはラテンアメリカ最大で、音楽、料理[法]、舞踊、服飾、カパエイラ、宗教など広範にわたって魅惑する何かを秘めている。
ドリヴァル・カイミやジョルジェ・アマードはバイーアを「良き大地」(Boa Terra)と呼んでいるが、これはサルヴァドールを意識してのことだろう。
この魅力的なバイーア州の都は従って、世界遺産に登録[1985年12月5日]されている。
※アフリカおよびアフロ系民族について研究する人にとっては、国立アフロ・ブラジル文化博物館(Museu Nacional da Cultura Afro-Brasileira)は必見である。
※拙著「多くの顔を持ったバイーア」(ブラジル中央協会 エッセイ)の中で、さまざまなサルヴァドールの事象を扱っているので、関心のおありの方は参照されたし。

5.Santuário do Bom Jesus de Matosinhos
一回きりではあるが、Ouro Pretoを泊まりがけで訪ねた折に、必見すべしと思い、1985年の12月6日にユネスコによって世界文化遺産として認められた、コンゴーニアスにあるSantuário do Bom Jesus de Matosinhosに出向くことができた。
コンゴーニアスは1950年以来、鉄鉱の採掘で発展したところで、ミナス州の他の歴史都市とは趣を異にしている。 ブラジルのバロック芸術は17世紀のイエズス会の教会建築で始まるが、MatosinhosはNossa Senhora do Carmo教会と並んで、最高芸術とも言うべき作品群が所蔵されている。 7つの教会堂からなるMatosinhosは、1757年から1761年の間に建造された。一人の偉大な彫刻家Aleijadinho[=身体不具者]の手になるもので、ブラジルのバロックおよび宗教芸術を代表するものになっている。中でもCapela dos Passos内のその不具者による木彫と教会の前庭の石鹸石に彫った12名の予言者像は、ことのほか有名である。
※アレイジァデイーニョは、ポルトガル人の大工で彫刻の匠的な存在のManuel Francisco Lisboaと、女奴隷のIsabelとの間に、1730年Vila Ricaに生まれる。幼い時から父親の工房で見よう見真似で、父を師として技術を習得する。が1777年.ハンセン病を患い、不遇の身となった。 1796年から1805年の間、コンゴーニアスで弟子たちの助力を得て彫刻芸術の活動を推進するが、47歳のときに病の兆候が現れ始め、遂には足指を喪い、膝頭で歩行することを余儀なくされた。
そして最後には、腕に彫刻刀を括り付けて彫刻するまでの、壮絶とも言うべき不自由の身に置かれていた。にもかかわらず、相次いで傑作を作り出した。これも、晩年の彼の敬虔な信仰によるものとみなされている。
ブラジルを代表する近代主義者のMário de Andrade, Manuel Bandeira,Cecília Meirelesたちは1919年、このコンゴーニアスの貴重な文化遺産が消失していることに警鐘を鳴らし、保全の必要性をアピールした。このことが、世界文化遺産の登録に繋がった、と思うのは私だけであろうか?




