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ブラジルの世界遺産 ②

  • 22 時間前
  • 読了時間: 6分

執筆者:田所 清克 氏(京都外国語大学名誉教授)

★★★この記事は執筆者の許可を得て伯学コラムに掲載させて頂きます★★★


ブラジルのユネスコによる世界遺産

[6]イグアスの自然公園 (Parque Nacional de Iguaçu)

 アフリカのビクトリアの滝、北米のナイアガラの滝と並んで、世界三大の瀑布であるイグアスの滝。トゥピ・グワラニ語で「大水=água grande もしくは大河=rio grande」を意味するイグアスの滝は、文字通り、そのスケールの大きさに圧倒される。

 3度目あるいは4度目にブラジルを訪ねた折に訪ねたが、あの瀑布の水しぶきをもろに被り、びしょ濡れになった想い出がある。しかも、当時は、イグアスが単に大瀑布だけで、生物学的にかけがえのない地域であるという認識はまるで私にはなかった。

 言及するのを失念していたが、ちなみに上記の言葉を分析すると、イグアスのイ→y[=i]iは、「水」もしくは」「川」を、グアス→guaçu[=açu]は、「大きな」となる。

 1986年11月17日に世界自然遺産として認められた、イグアスの滝を中心とするイグアス自然公園は、大西洋林(Mata Atlân- tica林)を抱え、生物多様性(biodiversidade)の宝庫である。

 多様な植物相と生物相の豊かさという点でイグアス自然公園は、アマゾンやパンタナル同様に貴重な存在で、もっと注目すべきであろう。

ブラジルのユネスコによる世界遺産

[7] ブラジリア(Brasília)

 1960年にリオからブラジリアへ遷都。何度か眼下に拡がる、飛行機の形状をしたこの国の行政・立法府の建物を中心に一望して、未来都市のような錯覚を覚えたことがある。

 まさしく世界の近代主義の最先端を印す数々の近代的な建造物一群がそこには、国土の心臓部に位置するブラジル中央平原に、さも誇示するかのように聳え立っている。

 索漠とした未開拓の平原にあえて首都を移したのには、大西洋沿岸部と同様に、開発発展させたいという政府の国土計画の狙いがあったようだ。

 国会、三権広場(praça dos Três Poderes)などの各種の政府官庁と合わせて、大聖堂(Catedral Metropolitana)やJK記念堂(Memorial JK)などもある。

 近くにはパラノアー(Paranoá)池もあり、ボートで遊覧できる。

 ちなみに、ブラジリアは1987年12月7日、世界文化遺産としてユネスコから認定された。

 ところで、ブラジリア建設の構想と発案は、時の大統領であるJuscelino Kubitschekによってなされた。

 建築家のOscar Niemeyerは大統領の要請を受けて都市計画者のLucio Costaとの協働で首都建設に着手することとなる。二-マイヤーは首都建設の創始者たる大統領を称える意味で1981年、JK記念館の建造にも取り掛かる。出来上がったMemorial JKには、大統領の個人的なもの、建設に関わる公文書などが収蔵されている。

 であるから、ブラジリア連邦府の施設を見学したら、ぜひとも訪ねて頂きたい。

ブラジルのユネスコによる世界遺産

[8]カピヴァラ山地の国立公園(Parque Nacional da Serra da Capivara)

 

 ピアウイ州の南東部に位置し、およそカアチンガの40%を占めるビオーマ[生物群系]内にある、世界の耳目を引くこの公園。

 おそらく多くの日本人はご存知でないと思われるが、考古学学者や考古学フアンにとっては、看過できない重要なところだ。

 何故なら、カピヴァラには、先史時代のおよそ1万2千年前の考古遺跡(sítios arqueólogicos)が12000あまり集中し、文字通りアメリカ大陸において最大規模のものである。しかも、この地には、コロンブス以前に住みついていたと解される古代人を知る、手がかりとなるものが存在しているからである。

 結果として、岩に刻まれ描かれた絵(pinturas rupestres)を通して私たちは、古代人と彼らの生活等の有り様を推察・想像することもできる。

 私は20代の後半にすでにカピヴァラの遺跡については知っていたが、機会を逸してとうとう訪れることは叶わなかった。

 世界的にも貴重である故に、カピヴァラ山地公園は1991年12月13日に世界文化遺産に認定されている。

ブラジルのユネスコによる世界遺産

[9]サン・ルイースの歴史中心地区(Centro Histórico de São Luís)

 

ブラジル北東部のなかでも、中北に位置するマラニャン州の都であるサン・ルイース。

この地は、一回きり訪ねたにもかかわらず、忘れられない想い出がある。

ここは、自然主義作家Aluísio Azevedo, インディアニスタ詩人のGonçalves Diasの生地であることから、私のような文学を学ぶ者にとつては默過し得ないものになっている。

「流亡の曲(うた)」の一節でゴンサルヴェス・ディアスは次のように吟う。

Não permita Deus que eu morra, Sem que eu volte para lá

神よ、われみまかるを許すことなかれ、あそこ(故国)に帰るもならで。 

しかしながら、ポルトガルからの帰路、故郷を目前にして船は難破して落命するのである。

 その彼が命を落とした波止場に出向き、辞世の詩作とも見なしうるものを反復しながら感慨に耽っていると、カーニバルに興じている集団に、腐れ玉子を投げつけられるという悲運に遭った。私の一張羅のスーツはその結果、無残なものになった。

 そうしたアンラッキーなことはあったが、ユネスコに認められた歴史性のあるサン・ルイースは私にとって、脳裏の深奥まで刻まれた印象深い街となった。つまり、世界遺産として認められるだけの、歴史的価値を有するものを蔵している。この地生まれの文人たちが、「ブラジルのアテネ」(Atenas Brasileira)と呼んだのも、さもありなん、という気がする。

 ところで、São MarcosとSão José双方の湾に位置するサン・ルイースは、戦略拠点であった。1535年にポルトガルの国王D. JoãoIIIはマラニャン州を世襲制のカピタニアにするのであるが、その地の[植民地時代の]行政長官(=capitão-mor)であった

João de Barroも他のポルトガル人たちも、自国の領土にもかかわらず、放擲した状態であった。

 それ故に事実上、トゥピナンバー族によってサン・ルイースはほぼ1世紀に亘って、そのインディオが「大きな島」(Upaon Açu)と呼んだ島であり続けた。

 1612年にはフランスが占有支配して「春分点のフランス」(França Equinocial) という名で自国領とした。そして、フランス国王Luis XIIIに敬意を表して、Saint Louisと命名することになる。

 1615年にその見捨てた寸前のサン・ルイースを再征服するのであるが、1641年に今度はオランダに侵略されて、領土を喪う。

 1644年にはポルトガルは領土を回復することになるが、街は数世紀に亘って元のままの状態に置かれていた。時の経過と共に、傷む貴重なもともとの建築群も近代化されることもなく放置同然であった。

 17および18世紀の邸宅などの歴史的建造物が見直され、修復されるようになったのは、1970年代になってからのことである。

 アフリカからの奴隷の来着と、先住民のトゥピナンバー族とが、ポルトガルの文化と融合して、他の地域とは異質なものとなり、多様な文化が育まれた。その異質性は、芸術や6月に催されるSão João祭のごとき民衆のフェスタにも明らかである。

 他方、サン・ルイースは、ポルトガルのアズレージョ(azulejo=彩色陶板)がさも誇示するかのように正面に施された邸宅群が櫛比している点で、ほかのブラジルの植民地都市からは抜きん出ている。

 こうした18および19世紀の建造物がおよそ4000あり、世界歴史遺産(1997年12月6日に認定される)に相応しい。

ブラジルのユネスコによる世界遺産  [10]南東部の大西洋林の自然保護区(Reservas da Mata Atlântica do Sudeste)

 

 大西洋林は、東部、北東部、南東部並びに南部の沿岸部特有のバイオーム[生物群系]である熱帯樹林を指す。アルゼンチンやパラグアイの一部にも見られる。

 なかでもブラジル南東部のそれは自然がもっとも保全されていることもあって、生物多様性の観点から重要視され、ユネスコの世界自然遺産に1999 年に認定されている。

 エコロジカルな面のみならず、植物学的にも動物学的にもきわめて重要な地域にもかかわらず、今やその原状をとどめているのは断片的な有り様だ。






 
 
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